2015年…昭和でいえば昭和90年となる年
昭和と同じに年を重ねた父が生誕90年となる今年…(健在ならですが…)
家の片付けをしていて、「発見」がありました。

プロフィールのコーナーでも書いたように、MKの模型飛行機の師匠でもある父…
MK家の茶の間の片隅にカップやトロフィー等が飾られたガラス棚があります。
その中に父の時代からあった数個の優勝カップがあるのですが…
刻まれた、こんな文字を発見!


TO THE WINNER OF 
THE 1st NATIONAL AIRPLANE CONTEST 
FOR 1949
HELD AT TOKYO,JAPAN



第四回国民体育大会記念
第一回全日本模型飛行機競技大会
昭和24年10月30日
於 東京多摩川


以前に、小山サークルで行われた飛行会の時に参加された黒田さんから見せてもらった模型雑誌…モデルエアプレーン3月創刊号
その中の記事と、重なりました!!


 
1949年にタイムスリップ!    …昭和24年秋

第四回国民体育大会記念、第一回全日本模型飛行機競技大会は、10月3日を中心に全国23都府県で予選大会を行い10月30日東京、多摩川スピード・ウエイで中央大会を決行した。
中央大会の出場者は、東京、埼玉、群馬、栃木、千葉、岩手、北海道、長野、山梨、静岡、京都、大阪、兵庫、神奈川の14都府県代表1300余が出場、TIMACの東京付近米軍将兵30余名も参加して催され、観衆7万人余を集めて戦後最大の盛況を呈した。
当日の成績は次の通り。


A級  (ライトプレーン)
1等 17分03秒 小林宏吉 (栃木)
2等 4分11秒 花見 征 (桐生)
3等 4分10秒 大和田裕風 (栃木)
C級    (被覆胴体)
1等 10.分04秒 小原長吉 (栃木)
2等 2分50秒 織田和夫 (埼玉)
3等 2分05秒 名川眞六郎 (東京)
D級(国際級被覆胴体)
1等 52秒 赤羽治弘 (宇都宮)
2等 39秒 三善清達 (東京)
3等 38秒 岸 貞男 (東京)
A級の優勝者がMK父です

父に、この頃の話を聞いたことがありました。
「兄貴の方が、飛行機作りはうまかったな〜」と言って、伯父の工作技術をほめていたが、当時、飛行機飛ばしに夢中になっていたのは、父の方だったんでしょうね。

第一回全日本模型飛行機競技大会に選抜された栃木チーム(TMAC)メンバーは、父(当時24歳)と、小原氏(後の栃木市万屋模型店主)、赤羽氏(後の宇都宮市赤羽模型店主)を含んだ強者揃い!
記事の順位表だけ見ていると栃木勢が、ゴム動力の3種目を制し、他に東京、埼玉、群馬であるから「関東大会?」なんて思いそうですが各地区の予選を経ての中央大会(1300人余が出場)3種目制覇ですから当時の栃木チームの機体性能と飛行技術は、全国でも上位クラスだった言えますね。


 
競技会は、1回飛行のみの一発勝負!(参加人数からして、数回飛行するラウンド制はできませんね)

当時主流の機体デザインや、他の選手の機体がどんな形であったかはよくわかりません。
昔聞いた話からの想像ですが、優勝機である父の飛行機はこんな形だったようです。

プロペラは、シングルブレードの折りたたみプロペラ
現在の様なプラスチック製のものは無く、木製プロペラしかなかった時代で、しかも、バルサ製の超軽量プロペラ!
父の話では、バルサ製のブレードは、ブロックからの削り出しでなく3mm厚の材料を濡らして木型に布で縛り付け、乾燥して後、周囲に竹ひごの皮の部分を接着して補強。
翼型に削り出してから、仕上げにクリヤ塗装を施した優れもの!
当時のバルサは高価だったし、コストと製作時間の短縮を考えた結果だったんですね!
シングルブレードですから、当然大口径のプロペラだったと思われます。
そして、バラストは釣り用の噛み潰し重り(鉛製)

飛行はこんなふうだった…
手から離れた飛行機は、上昇後にブレードは胴体上部に折りたたまれ滑空した
その後、頭上を旋回しながら飛行。(この時は風は無く、サーマルが発生してましたね。しかも視界ボツにならない程度のサーマルが…)
なかなか降りてこなかったという。
2位以下を大きく引き離しての優勝タイム17分の記録は、飛行機の性能もあったかもしれませんが、参加者の中で無風時に一人だけサーマルに入れて飛行させたことがわかります。

ライトプレーンの競技参加は、この大会が最後で、次年の第二回全日本模型飛行機競技大会にはUコン・スピードでデビューとなるわけで、父にとっての「次の目標」が出来た大会であったのかもしれませんね。


 その後…
第一回全日本模型飛行機競技大会の勝者2人(父と小原氏)は、29年後(昭和53年秋)に栃木のローカル大会で顔お合わせています。
 後列の赤い帽子が小原氏、そして右のメガネをかけているのがMK父
この時は、ある模型店主催のライトプレーン大会。
大学生だったMKは、とりあえず選手!。父はMKの誘いで田んぼに出かけたわけで、小原氏とは久しぶりだったようだ。
2人とも、競技には参加せず見学者として大会を見ていました。
MKの飛行機は、父の話から製作したシングル折りたたみブレードのプロペラを付けた「ぶっつけ本番機」(笑)
この飛行機を製作中に前述の話を聞いたわけで、「ダントツ優勝」を狙う…つもりだったんですが
しかし、そう甘くない!構想と現実は、ものすごいギャップで、MK機は上手く飛ばなかったのを記憶しています。


 
この大会の後ですね…父のライトプレーン設計〜製作を見たのは…
話に聞いていたバルサブレードの折りたたみプロペラ
「今は接着剤が良いからね…」ブレードの周囲は竹ひごでは無く、エポキシ接着剤を薄めて浸透させて強度を確保
そして円弧を利用した翼型の主翼…可変取り付け角は虫ピン2本で固定されていました。
軸受のパイプは、サイズに適当なものがなかったらしく、真鍮板をコツコツ叩いて丸めハンダで継ぎ目を固定して作っていました。
また、主翼に貼られた紙(雁皮)は、ご飯粒を練ってノリを作り貼っていました。

 父の設計〜製作のライトプレーン



(この機体は、今も大事に箱に収まっているのですが、残念なことに「ご飯粒」で貼った部分は綺麗に虫に食われてしまいました)

 
 
 
そして、昭和54年秋(モデルジャーナルの記事をBBSで紹介していただきました)
MKはこの日の出来事をあまり良く覚えていませんが、ライトプレーンの優勝が、弟のNKになっているところを見ると、当時まだ半人前のMKに、身をもって「ライトプレーンは、こう飛ばすのだ!」と教えてくれた日だったことを思い出しました。

父は、前日の夜に文鎮を使って主翼をねじって癖をつけていたのを記憶しています。
「こうした方が、高度を稼ぐと思うんだ…」左右どっちを、どのようにねじったかは記憶していませんが、当日の朝までそのまま固定してありました。

そして当日…
自分の飛行機を弟にエントリーさせ、競技会での親子対決でした。
今にして思えば、主翼のねじり調整とゴム巻きからリリースまでを弟を利用しての実演指導だったんですね。
そして、その飛行は…風上に向かってのロスのない見事な階段上昇!そして滑空!…で、アッサリ優勝!
当然MKもエントリーしていましたが上位に入りませんでした
この日の飛行で、父は自分のライトプレーンをその後飛ばすことはありませんでした。
 昭和54年秋のライトプレーン大会

父のすごさを思い切り感じた1日でした。

それがきっかけかどうかは解りませんが、この頃からFFにはまっていったのは事実です。
「もっといろいろ教えてもらえばよかった」…などと今は、思っています。


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